校史
創立・戦前期
- 昭和13年1月22日
- 東京府立第十一中学校を東京市赤坂区に設置し、同年4月より開校の件認可(文部省告示第9号)。「東京府告示第51号 東京府第十一中学校ヲ東京市赤坂区青山北町5丁目48番地ニ設置シ其ノ生徒定員ヲ1200名ト定メ昭和13年4月ヨリ開校ス。」
- 昭和13年1月31日
- 東京府視学官 林伝次 本校校長事務取扱を命ぜられ、仮事務所を東京府立第十高等女学校(現東京都立豊島高等学校。当時は旧青山師範学校校舎内に仮校舎があった)内に置く。
- 昭和13年2月8日
- 府市中等学校入学願書締め切り。十一中志願者835名(定員240名)。
- 昭和13年2月21日
- 東京府青山師範学校教諭(筆頭教諭=教頭)大森乙五郎、本校校長に就任(初代)。
- 昭和13年4月10日
- 東京府立第十一中学校第1回入学式挙行。1年生250名、5学級、教職員15名、教頭小倉隆
- 昭和13年4月11日
- 東京市赤坂区青山北町5丁目の旧青山師範学校附属小学校校舎を仮校舎として授業を開始。(青山師範学校(現東京学芸大学)は昭和11年に世田谷区に移転し、校舎が空いていた。)
- 昭和13年7月
- 臨海(上総湊)、高原(蓼科)各修養部設置。
- 昭和13年9月
- 購買部設置。ノート、鉛筆、原稿用紙などを安く販売。
- 昭和13年12月
- 「校友会誌」創刊号発刊。
- 昭和14年1月21日
- 大森校長発案のはだか体操を朝日新聞社がニュース映画に撮影する。
- 昭和14年2月8日
- 府市立中等学校入学願書締め切り。十一中志願者591名。
- 昭和14年3月末
- 仮校舎を青山師範学校本校旧校舎に移転。(仮校舎として使用していた府立十中が杉並区へ移転したため)
- 昭和14年6月
- 千葉県君津郡竹岡村(現富津市)に臨海修養施設「洗心寮」を設置。
- 昭和14年7月15日
- 現在地(足立区五兵衛町(当時の町名))に第1期工事の南側木造校舎落成。
- 昭和14年12月19日
- 新校舎見学会実施。北千住駅に集合し、徒歩で向かい校舎を見学。引き続き西新井大師まで徒歩で参拝。
- 昭和15年2月18日
- 十一中受験者、実数363名。2月27日合格者252名。
- 昭和15年3月27日
- 足立区五兵衛町940番地(現在地)に移転。27日から28日にかけて生徒を青山と綾瀬に2分して引っ越し作業を行う。校舎は1棟のみで教室は2階5室のほかは、教員室、事務室、器具室にあてる。
- 昭和15年4月
- 3回生入学。1年、2年、3年の15学級となり当初は教室不足のため3部授業を行う。
- 昭和15年5月13日
- 2部授業開始。
- 昭和15年6月10日
- 江戸川報国農園で勤労奉仕。
- 昭和15年6月30日
- 第2期工事の西側木造校舎落成。
- 昭和15年7月6日
- 鉄道当局より新駅設置の内諾を得る。
- 昭和15年7月11日
- 2部授業解消。
- 昭和15年8月31日
- 屋内体操場落成。
- 昭和15年9月28日
- 校名変更を指示される。
- 昭和15年10月4日
- 校名変更に対する反対意見書を提出。
- 昭和15年10月30日
- 本校生徒500名による相撲体操を明治神宮外苑にて奉納。
- 昭和15年11月11日
- 10キロ競争実施(恒例マラソンの始まり)。
- 昭和15年11月11日
- 校名変更するよう督促に「江北」と回答。
- 昭和16年2月3日
- 官報に「江北中学校」への名称変更認可告示
- 昭和16年3月4日
- 東京府公報に「江北中学校」への名称変更告示。
- 昭和16年4月1日
- 校名を東京府立江北中学校と改称する。ただし校章(十一中)は変更せず。
- 昭和16年4月23日
- 校友会を報国団に改組する。
- 昭和16年7月31日
- 第3期工事の北側木造校舎落成。
- 昭和16年11月14日
- 第1回40キロ強歩(千住新橋~大宮氷川神社)を小雨のなか実施。1着4人4時間45分。以後春秋2回実施。
- 昭和16年11月23日
- 学区制実施が報道される。昭和17年入試から4学区に分け、江北中は第2学区に属し、日本橋区、京橋区、下谷区、浅草区、本所区、深川区、荒川区、足立区、向島区、城東区、葛飾区、江戸川区から受験できた。第2学区にはほかに三中(両国)、七中(墨田川)、江戸川中、葛飾中(葛飾野)、第二市立中(上野)があった。
- 昭和17年2月
- 入試方法が変更され、内申書を提出し、受験当日は口頭試問と体力測定のみとなる。
- 昭和17年3月
- 4年修了者15名。(1回生)
- 昭和17年4月
- 5回生入学して全5学年がそろう。制服が国民服に変更。
- 昭和17年4月18日
- 日本本土初空襲のアメリカ爆撃機B-25が本校校舎上空を低空で通過したのを教師、生徒が目撃。本校には被害なし。
- 昭和17年5月
- 5年生、富士裾野板妻で3泊の野外訓練。
- 昭和17年6月30日
- 5年生、工場へ勤労奉仕。3,4年生は10月11日より。ほかに宮城前勤労奉仕も。
- 昭和17年9月22日
- 校旗(十一中)成り、明治神宮で開旗式を挙行。その後宮城前を行進し、靖国神社に参拝。
- 昭和18年3月
- 初の卒業生201名(1回生)と4年修了者9名(2回生)を送り出す。
- 昭和18年4月1日
- 綾瀬駅開業。(小倉教頭らによる鉄道省へ287回に及ぶ陳情の成果)。
- 昭和18年6月16日
- 校歌(土岐善麿作詞、山田耕作作曲)申請、8月25日認可。
- 昭和18年7月1日
- 東京都制実施により「府立」から「東京都立江北中学校」と改称。
- 昭和18年7月下旬
- 洗心寮が要塞地帯内にあるため使用できず、1年生(6回生)のみ2組に分かれて160人が外房勝浦で水泳訓練。
- 昭和18年8月25日
- 江北中学校校歌が2か所修正を条件に認可され、制定。
- 昭和19年3月
- 卒業生2回生229名、4年修了者62名。
- 昭和19年3月29日
- 第4期工事の東側木造校舎落成。これにより全校舎落成。
- 昭和19年3月31日
- 本校校長 大森乙五郎 退職。
- 昭和19年4月1日
- 都立第二中学校(現都立立川高等学校)教諭 松村象一郎 本校校長に就任。(第2代)
- 昭和19年4月以降
- 他校では英語授業を廃止するが本校は続行する。5,4,3年生は工場への勤労動員。合間に学校に戻り授業を受ける。
- 昭和19年秋
- 時局切迫し、40キロ強歩、10キロマラソン中止。40キロ競歩は19.5.9(大宮→学校)が最後となる。
- 昭和19年12月29日
- 学区制変更。4学区から7学区に分けると報道。江北中は第3学区に属し、足立区、葛飾区、荒川区、下谷区、浅草区、向島区から受験できた。同じ学区にはほかに七中(墨田川)、上野中があった。
- 昭和20年3月
- 5年制中学が1年短縮され、4年生も同時に卒業する。5年卒(3回生)179名、4年卒(4回生)215名。
- 昭和20年
- 生徒が輪番で教師とともに防空宿直を行うようになる。また夜間に警戒警報が発令されると学校近辺に居住の教師、生徒も学校へ駆けつけることが課せられる。疎開、軍関係学校(陸士、海兵、幼年学校、予科練など)へ転学のため生徒数が激減し、BC組のようにクラスが統合される。
- 昭和20年6月
- 江北中学校学徒隊結成。
- 昭和20年8月15日
- 終戦。9月より授業再開し、全校生徒1年生から4年生まで登校する。
- 昭和20年11月30日
- 学区制廃止発表。都心の80校が被災し受け入れが難しかったためどこでも入学できるようにした。
- 昭和20年12月4日
- 昭和21年の入試は身体検査のみで全員合格。応募者が著しく上回る場合面接による人物試験とした。
- 昭和21年2月23日
- 中等学校令が改正され4年に短縮された中学校修業年限が5年に戻る。ただし3月に卒業予定の4年生(5回生)は希望により4年で卒業も可とした。その結果、江北中の5回生は66人が卒業し、残りの5回生135人は翌年昭和22年3月に5年生として卒業。
- 昭和21年3月
- 4年修了(5回生)卒業 66名。
- 昭和21年4月
- 続々と復学。教職員が戦地から戻り教壇へ。生徒も疎開先や軍関係学校から復学。
教師も生徒も極端な食糧不足で学校を休んで買い出しに行く(公欠扱い)。学校中庭も畑になる。
- 昭和21年11月9日
- 第1回学芸大会。郷土部及び生物班研究発表、弁論大会、雑誌部上演、文芸部創作劇、英語劇、音楽会(ハーモニカ、ピアノ独奏、独唱、足立高女合唱部、音楽部合唱、4年生二部合唱)
- 昭和22年1月
- 校内模試復活。4年生、5年生が同一問題に取り組む。365人全員の成績が廊下に掲示される。
- 昭和22年3月
- 5年卒(5回生)卒業135名、4年修了(6回生)16名。
- 昭和22年4月
- 学制改革により6・3義務教育制度開始。旧制中学校は1年生募集停止。併設中学校を設置し、2年生(9回生)、3年生(8回生)は各々併設中学校2年生、3年生となる。
- 昭和22年5月19日
- GHQ東京軍政部デュッペル大尉ら3名が突如来校し、戦中に軍事教練で使用していた模擬銃器の処分について調査、尋問を受ける。
- 昭和22年9月17日
- カスリーン台風による利根川堤防決壊。学校は周辺住民600名の避難所になり休校。26日授業再開。
- 昭和22年10月10日
- 第2回学芸大会(~11日)。弁論大会、研究発表。童話劇、英語劇、演劇、音楽など多数。
- 昭和23年3月
- 5年卒業(6回生)95名、4年修了(7回生)若干名、併設中学校3年修了(8回生)32名。
- 昭和23年4月1日
- 東京都立第十一新制高等学校(3年制)設置、23年4月1日から開校(23年3月30日付け条例42号)。6回生は新制高校3年生に、7回生は新制高校2年生、8回生は新制高校1年生、9回生は併設中学3年生となる。
- 昭和23年4月19日
- 本校校長 松村象一郎 東京都立第六新制高等学校(現都立新宿高等学校)校長へ転任。
- 昭和23年4月20日
- 東京都立第一女子新制高等学校(現都立白鴎高等学校)教頭 西川尚顕 本校校長に就任(第3代)。
- 昭和23年4月20日
- 定時制課程を設置し、本校のほかに蒲原分校を現足立区立東淵江小学校に置く。
- 昭和23年5月11日
- 創立10周年記念式典挙行。創立10周年記念の歌「綾瀬の流れうるわしく」を発表。
- 昭和23年5月13日
- 大隈講堂において10周年記念同窓会総会及び芸能祭開催。同窓会理事長に飯村郁郎氏(1回生)選出。なお会長は校長が兼務していた。芸能祭では十一高演劇部出演による劇、松田トシ、安西愛子、岡本敦郎らプロによる軽音楽など。
- 昭和23年6月16日
- 自治会結成。男子の頭髪を伸ばすことが許可される。
- 昭和23年11月
- 新聞部による十一高新聞ガリ版刷り第1号発行。
- 昭和23年12月9日
- 十一高新聞(活字版第1号)発刊。
- 昭和24年3月4日
- 新制高校第1回卒業式。新制高校卒業(6回生)69名、旧制中学5年卒業(7回生)10名、併設中学3年卒業(9回生)42名。
- 昭和24年3月31日
- 江北中学校併設中学校廃止。(24年6月18日付け告示21号)
- 昭和24年4月1日
- 都立新制高校への通学難、入学難から都内を10通学区に分け、本校は第5学区(足立、荒川、台東、中央区)に属することになった。同時に男女共学がスタートし女子が1名入学したが、まもなく都立第一女子新制高等学校(現都立白鴎高等学校)に転校。
- 昭和24年9月24日
- 江北名物10キロマラソンが復活。参加者17名。綾瀬新橋から中川土手、花畑運河を経て、綾瀬川沿いを走るコース。1位39分30秒。
- 昭和24年11月3日
- 第1回江北祭。3日は学芸会、4日は弁論。5日は運動会だったが前日の雨で校庭が使えず6日に延期。
- 昭和25年1月26日
- 校名を東京都立江北高等学校に変更する。同窓会を江北会とする。
- 昭和25年4月1日
- 10回生(男子300名、女子100名)入学。実質的な男女共学スタート。
- 昭和25年7月5日
- 江北高等学校校歌「綾瀬の流れはゆたかに」発表会。
- 昭和25年11月24日
- 江北高校の新しい徽章(バッジ)が制定される。作者は美術教師 早川巍一郎。
- 昭和26年3月21日
- これまで経過措置として存在していた江北中学校が廃止される。
- 昭和26年3月31日
- 定時制蒲原分校廃止し、本校に統合。
- 昭和27年6月
- 第1回日本学生清書コンクールで、柴田三郎さん(2年)が金賞。
- 昭和27年9月30日
- 本校校長 西川尚顕 東京都立市谷高等学校長に転任。
- 昭和27年10月1日
- 東京都立向丘高等学校長 土屋潤身 本校校長に就任(第4代)。
- 昭和27年11月14日
- 自治会、校友会が一本化し、生徒会発足。初代生徒会長 善當治昌さん(11回生)
- 昭和28年2月
- 入学試験で女子の応募が定員を割る。二次募集女子8人。
- 昭和28年3月
- 初めての女子卒業生(10回生)を送り出す。
- 昭和28年9月14日
- 信州蓼科に江北山荘を設置。(昭和36年に売却)
- 昭和29年2月13日
- 第4回全国書道展で、柴田三郎さん(3年)が文部大臣賞(最高位)受賞。
- 昭和30年4月
- 校地拡張用地(西側)買収。10月1日埋立工事開始、翌31年9月30日、運動場完成。
- 昭和30年10月30日
- 第10回国民体育大会(神奈川)ボクシング団体戦に、伊藤靖倖さん(2年)が出場、4戦全勝。団体として東京都は4位になる。
- 昭和31年5月
- 10キロマラソン、運動会の種目として再復活。(昭和40年、交通事情悪化のため中止になる。)
- 昭和31年8月5日
- 第1回小椋杯バレーボール大会開催。
- 昭和31年8月
- 全日本高校ボクシング大会フェザー級で、伊藤靖倖さん(3年)が第2位。
- 昭和31年9月
- 校地拡張埋め立て工事終了し、新運動場完成。
- 昭和31年10月24日
- 独立図書館落成式挙行。
- 昭和33年4月
- 下駄ばきでの通学禁止。
- 昭和33年5月11日
- 創立20周年記念式典挙行。大森初代校長挨拶(記念事業は昭和31年度に完了した1万坪の校地拡張及び独立図書館整備事業。)
- 昭和33年7月
- 門衛小屋完成(3年生などが交代で行う門衛制度は昭和40年代半ばまで)。
- 昭和33年9月18日
- 台風21号、22号により床上浸水した近隣住民が本校教室へ避難。5日間休校。
- 昭和34年3月31日
- 本校校長 土屋潤身 退職。
- 昭和34年4月1日
- 東京都立千歳高等学校教諭 西尾能仁、本校校長に就任(第5代)。
- 昭和34年10月
- 国体柔道競技に、板倉孝充さん(3年)が東京都代表で出場。
- 昭和35年3月31日
- 定時制給食調理室、生徒会ホール、生徒会部室(すべて木造平屋建て)落成。
- 昭和35年8月25日
- 軟式野球部、全国大会出場。
- 昭和35年10月
- 講堂(体育館)が五反野道側に移転。
- 昭和35年11月
- 江北祭文化祭実施。本年から秋に変更。
- 昭和35年11月6日
- 同窓会「江北会」会長の校長兼務を廃して青地康雄さん(1回生)を選出。副会長には羽鳥弘さん(2回生)。
- 昭和36年3月10日
- 信州蓼科の江北山荘廃止。
- 昭和36年4月14日
- 第1期工事の南側校舎12教室を焼失。特別教室で3時限から授業開始。
- 昭和36年4月22日
- 第2期工事の西側校舎10教室及び中庭の生徒会部室を焼失。前回も含めて近隣の同一少年による放火と後日判明。
- 昭和36年8月4日
- 陸上部江間史郎さん(3年)が、三段跳びでインターハイ出場。
- 昭和36年
- 放送部、全国放送劇コンクールで優秀賞。
- 昭和36年11月1日
- 焼失した南側校舎跡地に鉄筋3階建て校舎着工。
- 昭和37年3月31日
- 本校校長 西尾能仁 都立豊多摩高等学校長に転任。
- 昭和37年4月1日
- 東京都立三鷹高等学校長 松岡節郎 本校校長に就任(第6代)。
- 昭和37年11月19日
- 南側鉄筋3階建て新校舎(3号館)落成。
- 昭和38年4月
- ベビーブーム対策のため新1年生は2学級増の10学級とする。以降は1学級増の9学級で編成することになる。
- 昭和39年7月10日
- 長野県小諸市竹原17番地に小諸山荘落成。浅間山麓標高800メートル。100名収容木造2階建て。
- 昭和40年4月
- 新1,2年生から男女別クラス制となる。それまでは男子組のほかに男女組もあった。
- 昭和40年6月
- プール完成。
- 昭和40年8月
- 体操部安田雅行さん(3年)、タンブリングでインターハイ優勝。
- 昭和40年10月21日
- 第3期工事の北側木造校舎の職員室を含む14室全焼。授業は即日行い、休校措置はなし。後日、近隣少年による放火と判明。なお、昭和36年の火事も別の近隣少年グループによる放火と判明する。
- 昭和41年1月1日
- 学校所在地の住居表示が「五兵衛町940番地」から「西綾瀬4丁目14番地30号」に変更される。
- 昭和41年4月30日
- 校庭改修工事完成。7月15日にはスプリンクラー完成。
- 昭和42年2月
- 学校群入試始まる。都立足立高等学校と編成した学校群53群で入試。
- 昭和42年3月10日
- 焼失した北側木造校舎の代わりに鉄筋3階建て校舎(2号館)完成。
- 昭和43年2月
- 学校群入試2年目。我が第53群は都内全学校群のなかで唯一の女子定員割れ。その後の願書再提出により定員割れ解消。
- 昭和43年3月31日
- 東側木造校舎北部分が鉄筋3階建てに完成。南半分は翌年3月に落成(1号館)。
- 昭和43年7月
- 陸上競技部、1600mリレーでインターハイ出場。
- 昭和43年11月16日
- 創立30周年記念式典挙行。記念事業は部室改築(完成は44年7月1日)。
- 昭和44年3月31日
- 本校校長 松岡節郎 退職。
- 昭和44年4月1日
- 東京都立京橋高等学校長 森武夫、本校校長に就任(第7代)。
- 昭和44年9月30日
- 旧体育館取り壊し完了。これにより十一中時代からの木造校舎は姿を消す。
- 昭和44年11月
- 制帽自由化。
- 昭和45年3月11日
- バリケード封鎖事件。ただちに排除、翌日から平常授業。
- 昭和45年3月31日
- 新体育館完成。
- 昭和45年4月
- 男女組復活。
- 昭和46年4月19日
- 生徒ホール(定時制)完成。
- 昭和46年4月20日
- 地下鉄千代田線、綾瀬駅に乗り入れる。駅が東へ200m移動する。
- 昭和47年4月
- 昭和47年度より女子の入学定員が増え男女比2対1となる。
- 昭和48年8月
- 陸上部風間明さん(3年)、5種競技でインターハイ3位。
- 昭和48年12月10日
- 地盤沈下の影響により南側校舎(3号館)を取り壊し開始。旧図書館、和室も取り壊し。
- 昭和49年8月5日
- 定時制給食調理室、食堂、鉄筋3階建て部室棟完成。
- 昭和49年8月
- 放送部佐久美玲子さん(3年)、NHK杯全国高校放送コンテスト出場。
- 昭和49年8月
- 軟式野球部、全国大会3位、10月の国体でも3位。
- 昭和49年11月20日
- 南側4階建て鉄筋校舎(新3号館)落成。
- 昭和50年3月31日
- 本校校長 森武夫 東京都立両国高等学校長へ転任。
- 昭和50年4月1日
- 東京都立一橋高等学校長 荒川潤、本校校長に就任(第8代)。
- 昭和50年8月
- 囲碁将棋部、全国高等学校囲碁選手権大会3位。
- 昭和50年10月
- 7年ぶりに同窓会会報発行。
- 昭和51年4月
- 江北会関西支部発足。
- 昭和51年8月
- 軟式野球部、全国大会出場。10月の佐賀国体にも出場。
- 昭和53年3月31日
- 本校校長 荒川潤、東京都立両国高等学校長へ転任。
- 昭和53年4月1日
- 東京都立南葛飾高等学校長 宇野一、本校校長に就任(第9代)。
- 昭和53年11月11日
- 創立40周年記念式典挙行。北村和夫氏(俳優座・2回生)講演。
- 昭和54年12月20日
- 千代田線、北綾瀬駅まで開通。
- 昭和56年4月9日
- 新1年生から臨時学級増により10クラスになる。すべてのクラスで男女共学(男女比2対1)になる。
- 昭和56年11月11日
- 鉄筋2階建て「柏友館」落成記念式典挙行。
- 昭和57年3月31日
- 本校校長 宇野一 退職。
- 昭和57年4月1日
- 東京都立紅葉川高等学校長 奥山稔、本校校長に就任(第10代)。
- 昭和57年4月1日
- 学校群制度を廃止し、グループ制選抜導入による入学。第5学区を51グループと52グループに分け、本校は足立区内の都立高校7校(足立、江北、淵江、足立西、足立東、青井、足立新田)からなる52グループに属した。(平成6年廃止)
- 昭和57年4月1日
- 「特色ある学校づくり推進校」指定。10月15日、マイコン52台導入。
- 昭和57年7月20日
- 小諸山荘に雑排水等汚染浄化処理施設を設置。
- 昭和57年8月2日
- 陸上部井川真弓さん(2年)、100mハードルでインターハイ出場。
- 昭和58年6月17日
- グリーンベルト整備。
- 昭和58年8月31日
- 正門改修。
- 昭和59年4月1日
- 新1年生、臨時学級増のため10クラス480名が入学。
- 昭和59年4月17日
- 外国人英語講師派遣制度により、Mrs.D.Carollが着任。
- 昭和60年2月18日
- 緑化工事完成。パイプフェンスの塀に沿ってツツジなどが植えられ、また、屋根付き自転車置き場、北側通用門、中庭屋外ステージが整備された。
- 昭和60年3月31日
- 本校校長 奥山稔 退職。
- 昭和60年4月1日
- 東京都立大山高等学校長 木村辰夫、本校校長に就任(第11代)。
- 昭和60年8月2日
- 全国高校総合文化祭の美術工芸部門で優秀賞。
- 昭和60年9月30日
- グラウンド等夜間照明施設全面改修工事。
- 昭和61年10月22日
- 校庭改修工事(ダスト舗装、散水設備、電気制御設備等)。
- 昭和62年3月31日
- 1号館照明設備、テニスコート防球網設置工事。
- 昭和63年1月29日
- 小諸山荘の敷地拡張。2982㎡増えて8502㎡。
- 昭和63年9月21日
- 通学自転車に登録シールを貼付開始。
- 平成元年3月18日
- 創立50周年記念式典挙行。
- 平成元年3月31日
- 本校校長 木村辰夫 退職。
- 平成元年4月1日
- 東京都立江戸川高等学校校長 金井忠雄 本校校長に就任(第12代)。
- 平成元年4月
- 格技棟(屋上プール付き)落成、のちに江道館と名付ける。体育館にステージ増設。
- 平成元年9月30日
- 駐輪場用地買収。
- 平成2年7月14日
- 創立50周年記念行事、体育施設完成記念祝賀会。
- 平成3年7月11日
- 校舎改修(冷暖房設置)工事着工。その間に仮使用するプレハブ校舎を校庭に建設。
- 平成4年3月31日
- 本校校長 金井忠雄 都立竹早高等学校校長に転任。
- 平成4年4月1日
- 東京都立竹台高等学校校長 長田雅郎、本校校長に就任(第13代)。
- 平成5年7月3日
- 校舎改修工事落成祈念式典挙行。全館が冷暖房設備を備える。
- 平成6年2月
- グループ選抜制廃止し、単独選抜になる。隣接学区枠を設ける。
- 平成6年4月
- 学習指導要領の改正により家庭科が男女共修になる。
- 平成6年5月6日
- 体育祭開催が1学期に移動、以降定着する。
- 平成7年1月26日
- 推薦入試スタート。66名が合格。
- 平成7年3月31日
- 本校校長 長田雅郎 退職。
- 平成7年4月1日
- 東京都立紅葉川高等学校校長 山脇俊彦、本校校長に就任(第14代)。
- 平成9年3月31日
- 本校校長 山脇俊彦、退職。
- 平成9年4月1日
- 東京都立水元高等学校長 荒井正賢、本校校長に就任(第15代)。
- 平成10年8月11日
- 演劇部、全国高校演劇大会で準優勝。
- 平成10年11月7日
- 創立60周年記念式典。
- 平成11年4月
- 新一年生から女子の制服が改定される。
- 平成11年8月26日
- 軟式野球部、全国大会出場。
- 平成11年9月17日
- 第1期耐震補強工事(2号館、北側校舎)完了。
- 平成12年10月10日
- 第2期耐震補強工事(1号館(東側校舎),3号館(南側校舎)完了。
- 平成13年3月31日
- 本校校長 荒井正賢 退職。
- 平成13年4月1日
- 東京都立文京高等学校長 鈴木勝利、本校校長に就任(第16代)。
- 平成15年2月
- 入試における学区制撤廃。都内の都立高校はどこでも受験できることになった。
- 平成15年3月
- この年の卒業生では江北史上はじめて女子の卒業生161名が男子卒業生155名を上回る。
- 平成15年3月31日
- 本校校長 鈴木勝利 退職。
- 平成15年4月1日
- 東京都立大山高等学校長 村岡薫、本校校長に就任(第17代)。
- 平成15年4月
- 2学期制、45分7時間授業導入。
- 平成16年4月
- 校史上初めて女子の入学者数(174名)が男子(154名)を上回る。翌17年度も同じ。
- 平成16年8月2日
- 吹奏楽部、全国高等学校総合文化祭(徳島)出場。
- 平成17年7月
- 演劇部、全国高等学校総合演劇研究会に出場、優秀賞。
- 平成17年12月15日
- 重点支援校に指定される。18年度から3年間。
- 平成18年3月31日
- 小諸山荘閉鎖。
- 平成18年12月12日
- 体育館耐震補強完了。
- 平成19年3月19日
- 重点支援事業として、オンデマンドによるサテライト教室設置。
- 平成19年3月31日
- 本校校長 村岡薫 退職。
- 平成19年4月1日
- 東京都立王子工業高等学校校長 磯部直樹、本校校長に就任(第18代)。
- 平成20年4月
- 3学期制、50分6時間授業に戻る。土曜授業、年間15回導入。
- 平成20年4月
- 部活動推進指定校。2年間。
- 平成20年4月17日
- 新入生合宿実施。
- 平成20年11月15日
- 創立70周年記念式典。
- 平成22年5月27日
- 進学指導推進校指定。24年度まで
- 平成23年2月4日
- 青少年読書感想文全国コンクールで、綿貫慎一さん(2年)が優秀賞受賞。
- 平成23年3月31日
- 本校校長 磯部直樹 退職。
- 平成23年4月1日
- 東京都立小金井工業高等学校校長 牧内利之、本校校長に就任(第19代)。
- 平成23年4月6日
- スポーツ教育推進校指定。2年間。
- 平成23年7月28日
- 重点支援校に再指定。25年度まで
- 平成25年1月31日
- 進学指導推進校に再指定。29年度まで
- 平成25年4月2日
- 大学進学サポートシステム設置
- 平成25年4月1日
- 特進クラスの設置。
- 平成26年3月31日
- 本校校長 牧内利之 東京都立橘高等学校校長へ転任。
- 平成26年4月1日
- 東京都立足立東高等学校校長 竹原勝博、本校校長に就任(第20代)。
- 平成26年4月1日
- アドバンス校に指定。30年度まで。
- 平成28年3月31日
- 本校校長 竹原勝博 退職。
- 平成28年4月1日
- 東京都立昭和高等学校校長 萩原聡、本校校長に就任(第21代)。
- 平成28年12月
- 新校舎建設工事着工
- 平成29年4月1日
- 新1年生から制服を変更。男子もいわゆる詰襟学生服からブレザー姿に。
- 平成29年8月24日
- 進学指導推進校再々指定。平成34年度まで。
- 平成30年3月31日
- 本校校長 萩原聡、東京都立西高等学校長へ転任。
- 平成30年4月1日
- 東京都立淵江高等学校校長 大塚雅一、本校校長に就任(第22代)。
- 平成30年11月2日
- 開校80周年記念式典、祝賀会開催。
- 平成30年12月1日
- 新校舎竣工。12月末引っ越し作業。生徒も自分の机椅子を運び込む。
- 平成31年1月8日
- 新校舎で3学期授業開始。
- 令和元年5月10日
- 東部地域の進学校の充実をめざしてアドバンス校再指定(令和3年3月31日まで)
- 令和2年8月31日
- 新グラウンド、テニスコート、多目的コート竣工
- 令和3年3月31日
- 本校校長 大塚雅一、退職。
- 令和3年4月1日
- 東京都立上野高等学校校長 江本敏男、本校校長に就任(第23代)。
- 令和4年3月31日
- 定時制課程閉課程。昭和23年以来74年の歴史を閉じる。卒業生5313名。
- 令和4年4月1日
- 英語教育研究推進校指定。