昭和25年から名称を東京都立江北高等学校となった母校ですが、昭和13年の創立時は東京府立第十一中学校でした。文字どおり東京府が設立した11番目の5年制男子校です。明治以降の教育制度は少し複雑ですが小学校卒業後は高等小学校へ行くか中学校へ行くかの選択肢がありました。ほかに実業学校や軍の学校もあり、選択肢は多様だったようです。しかし一般家庭の子どもたちの大半は小学校だけで仕事につき、余裕のある家庭でも高等小学校に行かせるだけでした。したがって中学校も多くなく東京府でも明治時代は四中までしかない時代が長かったのです。(公立より私立中学の方が多かったようです。)中等教育の充実が必要になり大正年間に4校が増設されました。更に昭和4年に九中が、昭和12年に十中が作られました。翌年の昭和13年に母校「十一中」が創立されています。
戦雲が怪しくなった昭和15年は一度に7校がつくられ、敗戦時までには二十三中まで数えました。これは男子校ですが、女子についてはほぼ同じ数の22の府立高等女学校が創設されています。また、当時は東京市という自治体もありました。今の大阪府と大阪市の関係と同じで、東京市立中学校や高等女学校もありましたが、戦況厳しくなった昭和18年に東京市は吸収されて東京都ができ、すべて都立となりました。
江北中學へ
府立中学校の数が多くなると、校名は地名で表わすことになりました。所在を知るのに便利である、数字で表すと新旧が一目瞭然になるという理由でしたが、十中までは従前どおりとされ統一性を欠いていました。母校は十一中のままでいきたいという声が強く、その旨要望活動もしたものの認められず昭和16年に「江北中學」としました。
わが校は東京の下町を貫く隅田川や規模は異なるものの中国・揚子江に似た荒川放水路の北に位置しており、校名はまさに中国の史書にでも現れるような怜悧、果敢な「江北健児」をイメージしたかと想像するのです。
過去に9か村が合併してできた「南足立郡江北村」という自治体が足立区西南部にありましたが、江北村は昭和7年に東京市に吸収され、足立区上沼田町などの町名に変わり既に消滅していました。時は流れ、昭和44年、住居表示変更により彼の地に江北という町名が生まれ、平成20年に完成した日暮里・舎人ライナー線の新駅も江北と名付けましたので、学校もその近くにあるのかと誤解されるおそれが生じました(そこには都立足立西高校があります)。しかし、こういう事例は多々あり、たとえば日比谷になくても日比谷高校と名乗っている学校もあります。地名を超える活躍を在校生、そして我々卒業生らがすればいいのです。ということで、お互いにがんばりましょう!
江北高校へ
話を戻します。昭和23年、学制改革が行われ、中学校、高等女学校は3年制の新制高等学校として生まれ変わることになり、過去のナンバースクールの多くは元の名前を生かした名称にしました。わが母校は新制第十一高等学校となります。また従前から新制中学相当学年も在籍していますので、新制中学校を併設して転校しなくても済むよう配慮しています。今の中高一貫校ですね。 そして、昭和25年1月、あらためて東京都立江北高等学校と名称を定め、今日に至っています。
さて余談です。「江北」を皆さんはどう発音しているのでしょうか。かな表記では「こうほく」ですが、私は「こーほく」「こおほく」と発音しているようです。下町育ちのせいかと思いつつ、以前から気になっていました。余談でした。
府立一中→日比谷高校
府立二中→立川高校
府立三中→両国高校
府立四中→戸山高校
府立五中→小石川高校
府立六中→新宿高校
府立七中→墨田川高校
府立八中→小山台高校
府立九中→北園高校
府立十中→西高校
府立十一中→江北高校
府立十二中→千歳高校→芦花高校
府立十三中→豊多摩高校
府立十四中→石神井高校
府立十五中→青山高校
府立十六中→江戸川高校
府立十七中→日本橋高校・葛飾野高校
府立十八中→十中に統合
府立十九中→国立高校
府立二十中→大泉高校
府立二十一中→武蔵丘高校
府立二十二中→城南高校→六本木高校
府立二十三中→大森高校