旧制府立十一中の質実剛健、文武両道の伝統を受け継ぎ、活躍するわれら江北健児、江北撫子。

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思い出の見出し、写真はネットとボール

大森乙五郎 先生


高等師範時代

大森先生は明治13年10月2日、埼玉県児玉郡松久村(現美里町)に生まれる。長兄は郷里の小学校校長、次兄は文部省督学官を経て金沢高等師範学校長。


明治35年に東京府師範学校を卒業後、日本橋区有馬小学校訓導になるが、あらためて東京高等師範学校に入学し、卒業後は母校東京府師範学校(のちの青山師範学校)の教諭になる。写真は高等師範時代の大森先生(中央列右から3人目)。

以降30年間、同校教諭として理科教育の指導にあたり、簡易器具を製作し実践教育を推進された。大正11年に出版した「理化実験教材解説並器械製作法」は当時の教員の参考書として広く読まれ、版を重ねたという。
授業は厳しかったと生徒は語り、怖い先生との印象をもたれたようだ。数学や物理を教えたが、授業は理路整然、簡潔で二度繰り返さず、うっかり聞き逃すと自室に戻って復習に困ったそうだ。また勉学にふまじめな生徒に対しては厳しく叱り、授業を中止して職員室へ引き上げることもあった。あるときノートを持ってこない生徒を見つけて、これでは授業はできないとやめて、職員室へその生徒を呼びつけたが、家が貧しく仕送りが乏しいためノートが買えないとわかると、黙って50銭銀貨を手に乗せてくれたと述懐された方もいる。一方、勉学以外のことでは生徒を擁護することが多く、校長室に呼びつけられた生徒は、厳しい顔の校長の横に立つ大森先生の顔色がやさしいのに救われたとも言う。

色白痩身のため「ローソク」とあだ名をいただき、寄宿舎の舎監として生活指導にあたり大正12年には教頭になっている。青山師範学校が昭和11年に世田谷区に移転するにあたっては大森教頭が中心になって校舎設計をまとめたが、予算に限りがあって思いどおりにはいかなかったという。


遠足写真

昭和13年2月、57歳にして府立十一中学校校長になる。

大森校長は6年間の任期中、自分の考えを理解してくれる教え子の教員や優秀と評判の教員を集めている。初代教頭には古い教え子で府立5中の小倉先生を招き全幅の信頼を置いた。「君の思いのまま経営してくれたまえ。責任はおいらが負うから。」と任された由である。小山(三上)清明先生も達筆で丁寧な手紙で十一中に誘われ、「取りたい教員は向こうでも居てもらいたい教員だし、無理して承知してもらうのだから、九州でも北海道でも行ってお願いする礼儀と熱意がなければならない。」と言っておられたそうである。大阪府立大手前高等女学校の安藤新太郎先生や栃木県佐野中学校におられた長谷川信也先生に対しても、わざわざ訪ねてきて校長に挨拶している。都内の小学校に勤めていた中山保先生も大森校長から分厚い封書で勧誘された一人である。府立中学の教師は無理だと思いあぐねていたところ、みぞれが降るなか、勤務先の小学校まで鶴のような老先生が訪ねてきて、「今日は校長さんに頼みに来たんだよ。取り次いでくれたまえ。」「君はね、誰の紹介もないんだが私が一番知っている。来ておくれね。」とおっしゃったと言う。

教え子以外でも良い先生がいると聞くと授業を参観し、直接会って人物を見て採用した。東京高等師範附属中学から小野先生(英語)、文理大の須賀先生(理科)、府立三商の田波先生(国語)などは招かれた教師である。こうして大森校長好みで集めた教師陣は律儀さが勝った田舎っぽい感じの方が多かったといわれるが、後年、二代目松村校長は、生徒から「大森校長が集めたような優秀な先生を採用してください。」と言われて、職員室で教師陣に奮起を促したという。

写真は遠足写真。前列中央が大森校長、右から2人目が小倉教頭。


十一中は開設当初、旧青山師範学校の校舎を利用した。大森校長や教え子の教員には懐かしい校舎で、古色蒼然とした建物を師弟一緒になって掃除に励み、清潔という点では申し分なかった。生徒は校舎内は素足となり、しかも足裏は汚れなかったという伝説があるが、生徒からは冬は寒くてやり切れなかったという感想も寄せられている。この伝統は綾瀬に移転後も続き、校舎内では素足で、さすがに冬は靴下をはいたが教室には火鉢もなかったという。月に1回の大掃除には床をたわしでこすり、おからで磨いた。昭和18年に入学した生徒の母親が白足袋で校舎内を歩いたが裏が汚れず驚嘆したと言う。

父兄会では「生徒が帰られたら学校はどうだったねと聞いてください。」「お子さんが勉強しているときは寝ないで起きていてください。」と言い、生徒には「諸君は十一中生徒として恥を知れ。」と短く訓示した。学業のためには健康も第一で、毎朝10時、全生徒が校庭で上半身裸になって行う大森校長発案の「はだか体操」や毎月の十キロマラソン、春秋の四十キロ強歩を進めた。もっとも長距離走は他の中学でも行っていたので、見習うものは積極的に取り入れたのだろう。一方、クラブ活動や他校との対抗試合を認めなかったことに不満を持つ先輩もいらっしゃる。学業を怠ることや対抗意識から敵がい心が育つことを嫌ったためと想像されるが、元気な少年たちには理解されないことかもしれない。

校長として修身の授業を受け持ったが、当然過ぎてつまらないともらし、物理の担当教員の柴田先生に「電気のところは僕が教えよう。君は見ていたまえ。」とおっしゃったそうである。柴田先生は教生時代に戻って授業を見学したが、その綿密な授業準備、機械器具の扱い方、結果の正確さにさすがだなと感嘆したと言う。


査閲

昭和16年12月に戦争が始まるが、緒戦の有利な時でも敗戦を見通している発言をしている。しかし府立中学の校長として役割を果たすことも強いられる。国民服にゲートルを巻きサーベルを帯びて、全校生徒に「かしらーなかー」と号令する姿は、「お気の毒ほど大森先生らしくない」「いたいたしい」と受け取られ、長谷川先生は「痩身にサーベルの帯がくいこめり」と書きとめた。写真は昭和18年の査閲の様子。左端が大森校長。

当時、どの中学でも配属将校や教練担当教官がいて、十一中でも行軍訓練や銃剣道、陸軍演習場での宿泊訓練が行われた。こうした訓練に圧迫感を感じた生徒もいたようだが、あいまに伝わるエピソードはほのぼのとしている。

綾瀬川土手で行われた行軍訓練は、釣りを楽しんでいる鈴木教官の邪魔をしないように、30メートル手前で歩調をといて教官の後ろを静かに歩き、魚が逃げないようにする。校庭ではいつまでも「止まれ」の号令がないものだから、柵のない校庭を越えて隣の田んぼに入り込んで荒らし、農家の方に怒鳴りこまれた、など先輩たちの思い出話はなにか牧歌的である。教官は、歩調を整えると橋が共振を起こして落ちた例がある。命令といえども合理的な判断ができないのでは戦場では命がない、と説明する。そして、大佐級が見守る査閲演習では江北中は優良可のうち「おおむね可」という評価をいただく。戦争中、英語授業を廃止する他校と違い、最後まで英議授業を続けた十一中の精神が見えるようだ。なお、鈴木教官も大森校長が青山師範から誘った方で、生徒からは「万年(少尉)さん」と親しまれる教官だった。

戦局は厳しくなり学徒動員令により軍需工場などに中学生を送り出すことになった昭和19年3月、大森校長は退職された。全校生徒が綾瀬川の土手に並んで先生を見送ったと伝えられる。

前年の昭和18年3月に初めての卒業生を出し、4月には念願の綾瀬駅が開業して通学の便が大幅に改善した。その功を得て片腕だった小倉教頭が9月に十六中(江戸川中学)の校長へ栄転したので潮時とみたのだろうか。退職後も生徒、同僚の身の振り方を案じていたが、大森先生自身は空襲で自宅を焼失し、次男を戦後のシベリア抑留で失っている。


大森先生胸像

戦後、招かれるクラス会、同窓会は喜んで出席し、昭和31年11月、学芸大学(青山師範の後身)竹早講堂での大森先生喜寿の祝いでは300人近い参加者があったという。昭和33年の江北高創立20周年記念式典でも挨拶されている。

昭和38年12月逝去。享年83歳。


江北高校に、教え子たちが拠出して建立された大森先生の胸像がある。その穏やかな顔はいつまでも若き江北生たちの明るいざわめきを楽しんでいるように思える。





追悼録「大森乙五郎先生」ほか江北会記念誌などから抜粋しまとめました。文中には私見があることをご了承ください。

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