旧制府立十一中の質実剛健、文武両道の伝統を受け継ぎ、活躍するわれら江北健児、江北撫子。

沿革 同窓生交歓 あのころ 点描散歩 江北会

思い出の見出し、写真はネットとボール

戦後期

この項は創立五十周年記念誌、六江会記念誌「都趣田情」、六十周年、七十周年記念誌に寄稿したOB・OGの思い出話などから抜粋・転載したものです。


男女共学の教室風景

昭和25年4月1日、100名の女子が入学し実質的な男女共学スタート。(現在は男女比ほぼ同じ)


藤田(金子) 武子さん(10回生)
「男子の学校に女子も入れることになりまして何の迷いもなくここを受験して入りました。ですから私としては憧れの学校に入れたわけで大変うれしく思いました。で、夢中で過ごしました。(中略)1対1はいけないとふうに言われまして、要するに一つの部屋に男子と女子がいてはいけないというようなこと。先生方はいろいろ心配をなさっていたのだと思いますね。私の学年でちょっと人数は忘れましたが、結構江北の卒業生と結婚しているんですね。そのころ付き合っていたと言う形じゃないんです。卒業して何年かしてから結婚した相手が江北と言うのが多いのです。」

萬里小路(永妻) 雅代さん(16回生)
「53人中15人の女生徒というクラス編成は、私には大きな圧迫感でまともに目が上げられない日々でした。答えは男子がするもののように只黙って下ばかり向いている女子に、幾何の野木先生がいつも言っていました。「女子はお客様じゃないんですよ。」
担任の中嶋先生のおツムにあやかって「教室も光り輝かせよう」とある放課後、全員一斉にトレパンの裾をめくり、たわし片手に裸足になって、苛性ソーダと水を床にぶちまけて、ワイワイゴシゴシ日の暮れるまで磨き上げ、見回りに来た先生のニコニコ笑顔にますます励まされ嬉しさいっぱいでした。翌朝は早々と登校し、昨日の出来栄えに満足げにながめ渡し、「汚すなよ」と上履きまで脱いで上がる気分。毎時間先生方が一人一人驚かれるのが皆すごくうれしかったんですね。楽しいクラスでした。」


蓼科の山荘

昭和28年9月、信州蓼科に江北山荘を設置(昭和36年に売却)。


大久保 元博さん(13回生)の話
「山荘を使いだしたのが恐らく僕らの代が初めてだと思うのですが、もう3年の時は壁が落ちてきて、落ちないようにブリキが貼ってあったような気がする。同期の薄倉という男が畳屋で、見るに見かねて道具を持って向こうで畳の修理をしたというんですね。」

金子 征史さん(20回生)の話
「蓼科も今みたいに賑やかじゃなくて寂しい、真ん中にプール平があって、そのすぐ脇のところですよね。木造で汚くて、今にも壊れそうな、それこそ江北の本校と同じような同質性をもった建物だったんですけれども、住むのには随分面白い建物だなと言う感じでもって、ワイワイ騒いで、あんまりクラブの勉強をした思い出はないですね。あそこでみんなで雑魚寝したんですね。」

新井 幸吉さん(20回生)
「蓼科にある山荘を使っての合宿、練習よりもザックに水を瓶に詰めたものとにぎり飯を持って蓼科山の登山が今でも思い出されます。」



昭和63年、青井高校体育館での大会の様子

昭和31年5月11日、第1回小椋杯バレーボール大会開催。


小椋一生(7回生)さんは高校2年のときバレーボールクラブを結成し非常な努力を続けた。卒業後教育大学に通い、都立両国高校に勤めるようになってからも忙しい時間を割いては本校に来校し、熱心に後輩の指導にあたった。しかし過労のため昭和30年8月3日に逝去された。同氏の霊を慰めるため記念のバレーボール大会が氏のご母堂を招いて開催された。

木村 昭光さん(10回生)
「困難にめげずバレーボール部を作り上げてくれた先輩たちに感謝したい。設立時の中心的人物で高校卒業後も足繁く母校に通い後輩の指導をしてくれた7回生の小椋一生氏が病魔に侵され昭和30年夏急逝した。先輩達に感謝の気持ちを忘れるな、OBはできるだけ後輩の指導に力を尽くそう、OB会の結束を固めよう、を合言葉に小椋氏の一周忌に当たるとき「第1回小椋杯争奪バレーボール大会」を開催した。高校体育部OB会主催のこの大会、初めは参加チームも少なく規模も貧弱なものだったが、今年(昭和63年)で33回目を迎え今では参加チームを制限する程成長し、大会後のOB懇親会では親子以上の年の離れたOB,OG歓談し、江北バレーボール精神が先輩から後輩へと受け継がれていく。」


拡張後の昭和33年ごろの航空写真

昭和31年9月、20周年記念事業の校地拡張埋め立て工事が終了し、新運動場完成(写真の上部(西側)が拡張された。)


村田(伊藤) 芳江さん(24回生)
「上野、白鴎、忍岡とまわり、受験校めぐりの最後に友人と江北高校に来たとき、あの広大なグラウンドに一目ぼれしてしまいました。金網越しに見たグラウンドに、しばし声もなく立ちつくしてしまったほどです。コンクリートでバレーコート2面しかない校庭でしか小・中を過ごしたことのない私にとって、そこはまるで別天地だったのです。友人と一緒の高校へなどという考えは全く浮かばないほど私の来るところはここしかないと思ったのです。茶色で古ぼけた常磐線、木造の綾瀬駅、綾瀬川沿いの道を歩いていると、時代を10年も20年もさかのぼった感じがしました。私は生まれも育ちも上野は稲荷町。高校に行くまでは日暮里から先には足を踏み入れたこともないという、狭い世界で生活していたのです。川も田も畑も生活の中に存在していなかったものですから、高校に通う3年間は毎日遠足する気分でした。事実、入学式後の3年間はお弁当を持ってバレーボールをやりに学校へ通っていたようなものです。(中略)3時過ぎになると目が輝いて、駆け足で部室に飛び込みました。土にまみれて白球を追い、真っ赤な夕日が体育館の横に沈んでいくまで、苦しい練習をよくも3年間続けたものだと思います。」



門衛小屋

昭和33年7月、門衛小屋完成。


門衛当番は生徒3人~4人で校門横にある小屋で待機し、来客の応対、校庭周囲の見回り、校門付近の清掃などを行った。昭和40年代半ばまで。


「8時に当番の4名が小屋に入る。8時20分から30分までの10分間が正門前はラッシュ。遅刻者名簿に学年・クラス・氏名を記入させる。他人の名を書く者に目を光らせる。遅刻者チェックが終わるとその整理。クラスごとに氏名を書いて学年主任の先生へ届ける。学校へ訪ねてくるお客様に対応・案内が主たる仕事である。その間、教室では授業が行われている。一部の生徒の中には「教育をうける権利があるのに・・・」とボヤク。しかし、多くの仲間は楽しい一日である。外から見えないようにトランプに興じたこともある。新聞に目を通すのは常識派。大学受験に目を赤くしている彼は数学の問題解法に余念がない。仲間同士の話し合いも思い出深い。休み時間にはクラス・クラブの友達が慰問に来る。先日、学校へ行ったら小屋はなく、朝だけ4人の生徒が立っていた。ただ校舎の周り、学校の前の道路をホウキで清掃している姿を見て、なつかしくもあり、伝統だと思った。」

加藤 邦彰さん(28回生)
「校舎の変わりようには驚いている。門のわきにあった門衛の小屋がなくなっている。当時は門衛という生徒が3人ずつ門番する制度があった。江北在学中に一度だけ回ってくるのだが、その日は授業も受けずに朝から夕方まで小屋にいて受付をしている。だからといって、そんなに来客が多いわけではない。自習したり、おしゃべりをしたり、私のときは文化祭間近で、植物図鑑とにらめっこしていたおぼえがある。それがそのまま大学での勉強になってしまったようだ。」


西尾校長先生の呼びかけ

昭和36年4月14日、22日、連続放火で校舎が被災。


西尾 能仁さん(第6代校長)
「かのゆるやかに流れ行く綾瀬川のほとりに通い続けた思い出は生涯忘れ難いことである。それに引きかえ、私の思い出は極めて暗い。それはあの伝統ある校舎が再度に亘って殆ど全焼に近い火災に遭遇したことである。しかし、先生方と生徒の保護者各位生徒諸君の皆様の勇気と教育愛に燃えたご協力によって、1日たりとも授業を休むことなく、その年の教育計画を完結し得たことは、江北の歴史にとって名誉あることと自負してよいと思っている。」

瀧澤(中田) マサ子さん(21回生)
「物心ついた時から毎日見てきた目の前の学校、我家は川を挟んだ正門前、橋の位置をどんなに恨めしく思ったことか。小さいときから江北に入るものだ決めていてそっと文化祭の後夜祭を盗見していた。炎の回りのカップルの踊りに、胸をドキドキさせていた。そんな憧れの学校に入学してその直後の火災、我家に火の粉がかぶるだけでも恐ろしかったのに刑事さんの執拗な訪問。その理由は担任への火事の第一報、これが早過ぎたのだった。私にとっては初めての大火を目の当たりにし、たぶんすごい興奮状態だったのでしょう。再三の火事でわが校は見違えるようになった。
私にとって高校時代は最高に楽しかった。可能ならば今一度あのころに帰りたい。もちろん教師も仲間もあのメンバーで。故佐藤文治先生の「日本の文化のたまり場東京に君たちは住んでいるのだ。大いに利用しなければ住んでいる意味がない。」深い感銘を受け、私も実践してきた。また相沢一好先生の「恋をせよ」の衝撃的な言葉。こちらはわが校の特典、男子が3倍もいて助かった。3年みっちり研究が出来たし、実社会においても大変役だった。」


小諸山荘

昭和39年7月10日、小諸山荘完成。浅間山麓標高800メートル、100名収容木造2階建て。(平成18年度売却)


山本(筒井) 陽子さん(32回生)
「小諸山荘―ほたる、せせらぎ、赤とんぼ、なぜか、あわい少女の頃のような思いが蘇える。私は理化部に所属していたが、毎年夏になると決まって山荘に出かけた。いつも電車で往復したので、テントや天体望遠鏡などの重い荷物を持たされた男子は、大変そうであった。夜は満天の星空での天体観測、昼は浅間山に登ったり、近くを散策したりして過ごした。特に山の朝は美しい。朝もや、鳥の声、緑の香りもさわやかに感じられる。水墨画のような風景が、やがて息づいてくる。その移り変わる様を見ることが、たまらくすきであった。」

根岸 幹雄さん(43回生)
「高校時代、そして卒業して10年近く夏の思い出と言えば小諸山荘で過ごした日々を抜きにして語れないほど山荘に行ったものです。高1の合宿は、何でも初体験のことが多く楽しくもキツイ練習の毎日だった。けれどもそんな中でも1日だけ先輩たちにご馳走してもらえる日があって、山荘から小諸駅まで陸上部全員で走って行って、喫茶店にジャージ姿で大挙して押しかけてお店の人たちを驚かせた思い出がなんとも懐かしい。卒業してからはコーチという立場で合宿に参加し、この頃になると山荘管理人の宮坂さんから「よく来たね、これお食べ」とトウモロコシの差し入れをもらった。社会人になって全日程は参加は無理でも後輩を連れて山荘に行き、一緒に練習した日々だった。」