旧制府立十一中の質実剛健、文武両道の伝統を受け継ぎ、活躍するわれら江北健児、江北撫子。

沿革 同窓生交歓 あのころ 点描散歩 江北会

思い出の見出し、写真はネットとボール

昭和後半期

この項は創立五十周年記念誌、六江会記念誌「都趣田情」、六十周年記念誌、七十周年記念誌に寄稿したOB・OGの思い出話などから抜粋・転載したものです。


火災後の様子

昭和40年10月21日、三度目の火災。北側校舎の職員室を含む14室全焼。授業は即日行った。近隣少年の放火による。


竹松 宏章さん(旧職員・教頭)
「予想もしない第3回目の火災が江北を襲ったのは昭和40年10月21日の未明だった。火は職員室から出て北側木造校舎約900平米を焼き尽くした。今は亡き松岡先生は校長として陣頭指揮をされ、生徒に動揺を与えぬため直ちに学校生活を平常に戻すように指示され、全職員はいろいろの障害を乗り越えてこの指示に従った。焼け残った東側の教室は、綾瀬川の水を吸って悪臭を放っているのを消毒して使用可能にしたりして教室は確保されたが、明後日予定の中間試験の実施は不可能と見られた。しかし教師用教科書をはじめ印刷機や用紙などを全職員の努力で用意し、試験実施の見通しを停電中の仮職員室で聞いた時は目頭が熱くなる思いであった。先生方の努力で学校はすぐ平常の状態に戻ることができた。」


ヘルメット

昭和45年3月11日、バリケード封鎖事件。

当時、全国各地で高校でバリケード封鎖事件があり、第5学区では既に上野、白鴎、足立でも発生していた。在校生3名、卒業生1名、他校生を含む十数名による。


森 武夫さん(第7代校長)
「卒業式も無事に終わった翌日、外人部隊もまじって警備員を軟禁し、机でバリケードを築き、教室に立てこもった。前年暮れに手ひどくやられた青山高校に強力な助っ人として、生徒部長村中先生を教頭として送り出した後のことである。しかし、あとを引き受けた湯本、吉岡、奥田等々の面々は負けてなるものかと強烈に立ち向かった。屋上でひるんだ4名を取り押さえ、またいち早く逃げ出した外人部隊の1名を塀際で取り押さえた。黙秘を続けるので綾瀬警察署に引き渡した。反帝高評のメンバーで都立高校の2年生だった。後でここの校長が謝りに来た。江北の厳しいが、一面暖かい思いやりのある生徒指導で、なんらの後遺症も残さずに高校紛争も終結した。」

菅野 一雄さん(6回生・旧職員)
「(昭和45年の)着任直前の3月卒業式の翌々日に十数名(他校生を含む)の生徒による学校封鎖があったそうです。封鎖生徒が非常用消火ホースで放水する中を教職員一丸となって立ち向かい、数時間で封鎖を解除したという話は、着任後いろいろな方から聞きました。私が着任してからは高校紛争も下火になっていましたが、それでも生徒部ニュースが頻繁に発行され、生徒の動向がくわしく報告され、教職員が気持ちをそろえてその対応に取り組んでおりました。」



コンピュータ導入によるマイコン教室

昭和57年11月1日、パソコン導入による教育。


奥田 彰さん(6回生・旧職員)
「特色ある学校づくり」として、一人一台のパソコン導入に踏み切ったのは1982年であった。予算の関係、当時はまだPC9801に代表される上位機種が開発されていなかったこと、生徒の教育にどうパソコンが役立つのかという経験がなかったことなどの理由で、かならずしも江北の52台、一人一台のパソコン導入が成功したとは言えない部分を多く持っている。しかし、250名を越える国の内外からの見学者。第1回のパソコンを用いた授業のあと「これだ」と都の指導室長が叫んだことでわかるように、全国にパソコン導入の波が広がる一助になったことは紛れもない事実であろう。このことが日本の教育に定着するか否か、日本教育にプラスになるかマイナスかは別にして。」



昭和58年8月31日、校門改修


奥井 善太郎さん(6回生)
「昭和58年夏、奥山元校長先生に「学校の顔である正門がみすぼらしいから、何とかして欲しい」と依頼された。破損した門柱の表面を除去すると老朽したコンクリート柱が現れた。多分、創立以来の唯一のものであるに違いなかった。その記念すべき門柱を、私は何とか残せないものかと苦心し、どうやら現在の正門の姿に再生することができた。それは今後も、多くの生徒達を黙々と送迎することだろうが、私にとってもそれが母校に対するひそかな思い入れとして残るに違いない。」

(左が昭和19年ごろの正門、右が平成23年の正門)

    現在の校門
昔の校門